令和3年度 第30回 とちぎ教育振興大会 郷土の偉人紹介

演題 「田庄司と益子焼の系譜」

講師 益子町副町長・益子陶芸美術館長 横田 清泰

〇濱田庄司の美意識

 濱田庄司(1894-1978)は、1955(昭和30)年に第1回重要無形文化財保持者「民藝陶器」(人間国宝)に認定され、1968(昭和43)年に文化勲章を受章した、世界的にも知られる陶芸家です。
1894(明治27)年に現在の神奈川県川崎市で生まれ、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科を卒業した後、京都市立陶磁器試験場で、当時の陶芸業界の先端技術を学び、釉薬などの研究を行いました。
その経験を買われ、濱田は英国人の陶芸家バーナード・リーチに誘われて、1920(大正9)年に彼とともに英国に渡り、イングランド西南端のセント・アイヴスで作陶を始めました。ロンドンの老舗パターソンズ・ギャラリーの個展では、ヴィクトリア&アルバート美術館の学芸員が好評を寄せ、作品は完売しました。


濱田庄司とバーナード・リーチ


セント・アイヴス

 

 1921(大正10)年には、サセックス州のディッチリングを訪問して、工芸家村の中心人物である染織家エセル・メーレとデザイナーで版画家のエリック・ギルとの対面を果たします。この工芸家村は、ロンドンからさほど遠くない距離でありながらゆっくりとした時間が流れる穏やかな村で、工芸家やデザイナーたちが、生活も芸術活動も含めたすべての身の回りの物事を自分の意志でデザインするという、健康で自由な生活が営まれていました。
そうした中で、濱田はギルたちを「確固たる信念と落ち着きを彼らの仕事と生活に持っていた。確固たる信念は頭によって得られるが、しかし落書きは良き生活の支えがなければ得られるものではない」と評しました。
1924(大正13)年に帰国した濱田は、3年間の英国生活の経験を活かし、東京からほど近い距離でありながら、江戸後期の窯場の仕事ぶりが残る栃木県益子での「良き生活」を選択しました。
濱田の益子での生活は全て自然に基づくもので、健康あるいは健やかな美を追求し、現在でいうところのスローライフを先駆けて実践しました。
そして、益子の土と釉薬を使った濱田の作品は、生活とともにある健やかな美を求めたもので、陶芸の世界に新たな境地を切り拓きました。

 

〇益子焼の誕生と作風の変化

 益子焼の陶祖は大塚啓三郎とされています。19世紀後半、笠間藩箱田村の鳳台院で寺子屋教育を受けていた大塚が、久野窯(箱田村の名主久野半右衛門が信楽の陶工を招き、後の笠間焼を始める)での焼き物作りとの出合いからそこで陶器の製法を修行し、益子で築いた窯が益子焼の始まりとなります。
明治時代から大正時代にかけて、益子では壺、水甕、すり鉢、土鍋などの日用品を製造出荷し、その製品は丈夫で使いやすく、安価であったことから東京を中心に東日本全域にまで販路を大きく拡大することに成功しました。


明治期の登窯(岩下製陶)


明治期の益子焼

 

 しかし、順風満帆な経営は長くなく、産業発展と生活様式の変化で益子の窯元は生活の危機を幾度となく迎える中、作風の変化が起こります。
昭和初期に手仕事に宿る美を見いだす民藝運動が拡がり、濱田庄司を中心に芸術性の要素が加わった民藝陶器が作られるようになりました。
濱田の作品は、おおらかさを湛えた安定感を見せ、その加飾はなんでもないことのように見えますが、釉薬を中心とした技術力は極めて高いものがあります。
そして、濱田を慕って多くの若手陶芸家が益子に集い活動するようになり、島岡達三、加守田章二、佐久間藤太郎、村田元、瀬戸浩など、多士済々の陶芸家が活躍し、さらにその弟子たちが益子で競うように窯を築きました。
濱田は自身の作風を真似る窯元に対しても、「真似をするうちにだんだんと自分の仕事になれば良い」と認め、益子焼に独自の個性や芸術性を加える指導も行った結果、益子は無個性な多産地の写しのスタイルから、濱田の健やかな作風を取り入れ、個性豊かで自由なスタイルの産地へと発展を遂げ、今日に至ります。


濱田庄司の作品


加守田章二の作品