令和元年度 第28回 とちぎ教育振興大会 郷土の偉人紹介

演題 「いちご栽培を栃木に根付かせた 仁井田一郎」

講師 西方町立西方中学校 教諭 奥山 雄宏 氏

 

1 栃木県は「いちご王国」

 栃木県のホームページの農業試験場いちご研究所公表の統計によれば、平成29年産の全国いちご収穫量は163,700t、作付面積は5,280ha、そのうち栃木県は収穫量は25,100tで昭和43年産から平成29年産まで50年連続日本一作付面積は554haで、平成13年産から平成29年産まで17年連続日本一産出額も271億円で、平成7年から平成29年まで23年連続日本一と、まさしく「いちご王国」の称号にふさわしい県です。今や栃木県は日本に名だたるいちごの生産地であり、宇都宮餃子と並ぶ名産品としての地位を確固たるものにしているといえます。
 そのブランド力は、たとえばFM栃木は「レディオ・ベリ-」、真岡のケーブルテレビは「いちごてれび」の愛称を用いていることなどからもうかがます。
 栃木のいちご栽培の先駆者であり、「いちご王国」栃木県の礎をつくった人物こそ、仁井田一郎です。

図1 都道府県別いちご収穫量(平成29年度)栃木県ホームページより

 

2 いちご栽培のパイオニア 仁井田一郎とはどんな人物か?

 仁井田一郎は、1912年(明治45年)足利郡御厨町に生まれ、旧制中学校に進学するも中退して家業の農業に取り組みました。日中は農業に勤しみ、夜は作物栽培法や肥料など農業の勉強に独学で取り組んだそうです。その後、農作物を市場に 効率よく出すために昭和15年に御厨蔬菜生産出荷組合を作り上げ、戦後復員した後には御厨町町会議員に推され、御厨町産業振興委員会を立ち上げるなど、生涯郷土の農業振興に活躍しました。仁井田の生涯追究した課題は、「五反百姓」と呼ばれた当時の狭い耕地から「いかにして豊かな収入を上げるか?」だったそうです。

図2 仁井田一郎 足利市およびとちぎふるさと学習ホームページより

 

3 仁井田が生きたころの栃木県の農村は?

○戦前期

 仁井田一郎が生きた大正から昭和期の足利地区の農村も、明治政府以来の大陸政策による軍事面での協力と服従の中にありました。そもそも足利では農村を中心に織物業が興隆した地域でした。さらに1915年(大正4年)から栃木県が県下一斉に開始した地方改良運動、町村是政策では各農村が挙村一致の体制で農村民を奮励させる基盤を固め、織物生産や米・麦の生産の拡大が見られました。
 そんな風潮の中で、1935年頃には県内でもいちご栽培の例が確認されています。現栃木市都賀町の合戦場の中島宗三が露地栽培のいちご農園を開きました。ただし市場には出荷せず客にいちごを摘ませる農園として解放、これは観光いちご農園のはしりとされていますが、1942年(昭和17年)には食料作物への転換命令が出されたため廃作となっています。

 ○戦後の動き

 第二次大戦後の農地改革によって足利西部や北部では織物業のほかに縫製・プラスチック成形などが農村に流入し兼業農家が一般化していきました。南部や東部ではキュウリ、ナス、インゲントマトなどをビニールトンネルを用いて栽培する園芸農業が広まるなど、足利地区の農村は地区ごとに多様な発展をとげました。仁井田は、そんな中で戦後の足利で、いちご栽培に本格的に取り組むことになりました。

 

4 いちご栽培を栃木県に!

○戦後の出発

 戦後に兵隊から復員した仁井田は、野菜生産出荷組合の立て直しに取り組むなどした後、御厨町の町会議員となります。郷土の御厨町の産業振興に取り組む仁井田は静岡県の志太郡でのいちごの促成や露地栽培の視察し、これを本格的に取り入れます。議員の辞職後は御厨町の農協に「いちご部」を創設し、産地化へと取り組みました。

○1955年(昭和30年)御厨苺組合設立

 その後仁井田は農協を退き、御厨苺組合を設立しました。いちごの露地栽培が軌道に乗ると今度は促成栽培の研究に取り組み、自ら自転車で遠く神奈川県の高座軍有馬村(現・海老名市)まで趣き、現地の組合長から石垣いちごの栽培技術の教えを請うたといいます。組合長は、仁井田の熱意に大変驚いたそうです。
仁井田は御厨と神奈川との気象条件の比較を行い、気温差を克服する技術を編み出して翌年には「福羽いちご」の収穫に成功しました

○早出し技術「高冷地育苗」に取り組む

 仁井田は、当時御厨と並ぶいちごの産地であった田沼町の柿沼兵次さん取り組んでいた技術「高冷地育苗」を取り入れました。
いちごの生育には18~25度の気温が最も適しているといわれているそうですが、実がなるには一度寒さを経験する必要があります。柿沼兵次さんの研究で、一定期間いちごの苗を寒いなかで育てる高冷地には日光戦場ヶ原が適地であるとわかっていました。仁井田は高冷地の苗に付き添いながら、無報酬で農家にこの栽培方法の指導を続けました
西方町在住の苺農家の駒場さんのお話によれば、駒場さんの祖父の代である昭和35年~40年頃に苺栽培を始めたそうです。足利から西方の真名子地区に伝わった苺栽培が西方町内に広まっていきました。このように県内の他の地区にも、苺栽培が広まっていったのです

○仁井田一郎の信念とリーダーシップ

 「いちご王国」栃木県のパイオニアである仁井田一郎は、
(1)「狭い農地しかもたない農家がいかにして豊かな収入を得るか?」を生涯の課題とした。
(2)自ら先頭に立ち、栽培技術を研究し、新しい技術を積極的に取り入れ、それらを惜しみなく農家に広めた。
そして晩年まで講演や農家の指導に奔走し、いちご栽培を広め続けました。御厨いちごの高額生産者には北海道旅行が報償として贈られたそうですが、仁井田自身は一度も行かず、組合員の農家が旅行を楽しんでもらえるように気を配ったといいます。
(3)率先して取り組むリーダーシップと同時に、自分が出過ぎないように周囲に配慮する。
ひとつのものがブランド化するには、長い時間の積み重ねが必要です。いちご栽培の先達は他にもいます。しかし、今日の「いちご王国」栃木県の礎は、仁井田一郎という人物によって築かれといえるでしょう。

図3 仁井田家の「発祥の地」石碑 足利市およびとちぎふるさと学習ホームページより

 

5 いちご栽培のふるさとは歴史の中に

 御厨地区のいちご栽培は、仁井田の亡くなった1975年(昭和50年)をピークに、都市化の進行による農地の宅地化、後継者不足などの時代の流れの中で減少していきました。仁井田が発足させた御厨苺組合も、組合員の高齢化と減少で1986年(昭和61年)に解散が決定。往時の御厨地区いちご栽培の隆盛を偲ぶのは、仁井田家の庭先に立てられた「栃木県産苺発祥の地 御厨苺組合」の石碑だけとなりました。一方、栃木県内にはあまたのいちごの品種「女峰」、「とちおとめ」「スカイベリー」「とちひめ」の産地が活況を呈しています。前述の駒場さんによると苺の品種改良の努力も続けられ、現在農業試験場には何千何百という苺の苗株が保管されているそうです。栃木県の莓は、京浜地区から東北にまで出荷されています。さらに駒場さんのような農家がもつ莓の栽培技術は、かつて仁井田が各地に広めたように、タイや中 国にも技術指導の形で広まっています。一方で、「莓十三ヶ月」といわれるほど収穫まで手間暇のかかる莓栽培もやはり後継者などのさまざまな問題を抱えています。駒場さんにお話しを聞く中で、「農業技術は、大切な日本文化」という言葉がありました。こうした生産者の日々の努力が、「いちご王国」栃木県を支え続けています。


※ 取材に当たりましては、栃木市西方町で莓栽培に取り組まれている駒場威様、粟野町農業協同組合の渡邉宏幸様より多大なる御協力を賜りました。本当にありがとうございました。

<参考文献・資料>
・ 栃木「地理・地名・地図」の謎(篠崎茂雄監修・実業之日本社 2014年)
・しもつけ物語 人物編・第7集(栃木県連合教育会 昭和63年)
・足利ー原始から現代までー(下野新聞社 昭和52年)
・栃木県史 通史編8ー近現代三ー(栃木県史編纂委員会・栃木県 昭和59年)
・とちぎ農作物はじまり物語(橋本 智 随想社 2009年)


 仁井田一郎は、明治45年、足利市に生まれた。腕白な少年時代を経て、当時の足利中学校に進学するも、中退して家業である農業を継ぐ。やがて生産出荷組合を立ち上げるなど、地域の農業を支える存在となった。太平洋戦争後、狭い農地を活用し農家の収入を高める方策として静岡県のいちご栽培に着目し、その後研究を重ねて「東京以北では暖房なしでは不可能」と言われていたイチゴの促成栽培に成功する。昭和39年の東京オリンピックでは、仁井田たちの苦心の結晶である「日光いちご」が世界中の選手達に感動を与えた。
 現在、いちごは特産物という役割を超え、観光を支える重要なアイテムとなっている。今回の発表では、栃木県のいちご栽培の現状、いちごを活用した様々な取り組みへの取材をとおして、「栃木県といちごとの関わり」を多面的に紹介したい。